鶴の来る武家屋敷町 出水麓

           大手前飫肥杉と飫肥石で囲まれた大手前
            交 通  JR日南線、飫肥駅下車70分駅より徒歩10分
                       バス 宮崎空港、南宮崎駅より飫肥バス停、約2時間
              所在地  宮崎県日南市飫肥町
 

            舌端状に蛇行する川を防衛の堀とする
             ローデンブルグ等と似た舌端状に蛇行する川を防衛の堀とする要塞都市
            小鹿倉家 源氏塀
                小鹿倉家、武台付きの玄関に達する立派な構え    源氏塀が飫肥の特徴
            商家資料館 豫章館
                       商家資料館           豫章館は遠くの愛宕山を園内借景とした庭園

 まちの生い立ちと町なみの特徴

  • 洒谷川が大きく放物線を描く中、その直径400m位の台地の中に、飫肥の武家屋敷町があります。丁度この地形は、ドイツの古都ローデンブルグ等と似た舌端状に蛇行する川を防衛の堀とする要塞です。
    このまちは、伊東氏と島津氏の間で、激しく永く500年戦争と称される国盗りの戦いが繰り返されました。
  • まちの構造は、南斜面の台地の北部の高い所に飫肥城と田上八幡神社を設置し、それぞれ城の大手門及出水の道路計画び田上神社から南に幹線軸として大手門通りと八幡通りの道路をつくり、南北には北の大手門の東から5本の道を有するグリット型の町割りとまっています。
    道はシラス台地を削り下げて建設しました。つまり、敷地は道より約1m前後高くなっています。諏訪馬場と竪馬場の間のゾーンがこの麓の骨格となり、南の山頂、亀ヶ城、高台の御仮屋、その北に重臣の屋敷、台地の北端には、宗廟、諏訪神社を配し、諏訪神社前、重臣屋敷北側は、演武場としてこの地区の中心を形成しています。鬼坂を起点として東方のビスタを重視した東西道は、菱刈街道 (ヒシカイミツ)となり、123の麓をネットワークする幹線となっています。そしてその中間部にもビスタに配慮された三原小路(ミハランシユツ)を建設しました。このように出水麓の計画は、地形を生かし、眺望を重視し、明解な軸線でまちに整然とした軸線を与え、亀ヶ城跡へ集中する視線は、為政者への敬服の念を表し、ランドマークとしてまちに求心性を与えております。城に近い十文字地区、大手地区には、高禄の武家屋敷が多く、南に下がると中級武士、さらに南の国道222号沿いの本町地区は、商家が並びます。
    飫肥の武家屋敷町は重厚で風格があります。特に「武家門」「源子塀」「石垣」の組合わせによる統一とディール(石の組み方等)の相違が、脈となり“まち”をまとめています。「武家門」は、上級武士は、本柱、控柱各2本づつ有する切妻屋根の薬医門、中級武士は、本柱2本と屋根を支える腕木からなる腕木門を設置し、塀なみにリズムを与えています。この町は塀に特徴があります。「源氏塀」は、下部を飫肥石で積み上げその上の腰壁は下見板貼とし、さらにその上は白漆喰塗壁仕上げ、そして頂上部に瓦屋根を葺いています。実に荘厳にして重厚なものです。「石垣」は、近くに凝灰岩の飫肥石が産出されることと、水路の恵み防衛上の必然性により活用され、この堂々たるまちなみの景観を創出しているのです。洒谷川に囲まれた飫肥城下町は、水路のまちでもあります。城下町には川から生活用水が引き込まれ、住民の生活を支えてきたものですが、今は、この水路の恵みを、「鯉」の放流で再活用しています。子供達が伸び伸びと鯉に声を掛け、身近な親水空間として、古い城下町の光景ともよくマッチして、飫肥のまちを一段と魅力あるものとしています。
    代表的な建築物は、大手門を出てすぐ左に伊東祐帰邸があります。邸内にあった数百年の老樟樹にちなんで“豫章館”と名付けられました。この庭園は遠くの愛宕山を築山のごとく、園内借景として取り込み実に大胆、且つ雄大に眺望です。小鹿倉家は、代々飫肥藩の藩医を務めた家柄で、高石垣が道に面し、門を入ると武台付きの玄関に達する立派な構えです。
       
           参考文献:出水麓伝統的建造物群保存地区保存対策調査報告書 出水市教育委員会

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